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災いが立て続く時代だからこそ、求められる共助。 「有事」を乗り越えるのは「平時」の思いやり

史上稀に見る大型台風に、大地震、挙句の果てに新型コロナウイルスの猛威、と令和を迎えて以降、人知を超えた災いが、相次いで日本列島を襲っています。

そうした有事の際に必ずと言っていいほど流れるのが、「トイレットペーパーが街から消える」「ガソリンをすぐにでも入れておいたほうがいい」といった流言飛語。それに扇動された大衆は、買い占めなどを行い、本当に必要な人に届かなくなるという事態も少なくありません。

こういった未曾有の災いのなか、我先にと自分のことばかりを考えてしまうのは、ある意味での人間の本能と言えます。しかしそうした際に、本当に大事になるのは「お互いに助け合うこと」ではないでしょうか。

この「共助」を体現した人物として、真っ先に思い浮かぶのは、“二宮金次郎”の呼称で有名な偉人・二宮尊徳。潮音寺が身を置く小田原の地で、生まれ育った偉人です。

かつて江戸を襲った深刻な食糧難「天保の大飢饉」の話はご存知でしょうか。市中はもちろん、自身も苦境に立つなか、この尊徳が小田原藩の米倉を解放し、領民に米を行き渡らせたことで、少なくとも小田原領内では、餓死者を出すことはなかったという逸話のことです。

当然、自身が米倉を独り占めすることで、自分だけが生きながらえる、あるいは儲けにつなげるということもできたでしょう。しかしそうした我欲には目もくれずに、領民に配ることを優先させた。この行いは、現代にも継承していくべき「共助」の考えた方だと私は考えています。

尊徳は、この「共助」について語る際、「天道」という言葉を使いました。これは、「私欲を捨てる」という意味を表していて、その反対に「私欲にとらわれる」を意味する「人道」に従ってばかりいては、人は最終的に豊かになることができない、と説いたのです。

有事の際に、我先にと自分のことばかりを考えてしまう。その瞬間だけを切り取れば、救われているようにも思えるかもしれませんが、その先の長い人生を考えれば、とても実のある行為とは言えません。

もし豊かな人生を送りたいのであれば、まずは他者のことを思いやり、困っていれば手を差し伸べる。その手は、やがて巡り巡って、いつか自分が困っているときに、誰かが差し伸べてくれる手になるのです。

このような尊徳の思想は「報徳思想」と言い、戦後日本の道徳教育にも多大な影響を与えてきました。どこの小学校にも二宮金次郎の銅像が置かれているという事実が、そのなによりの証拠でしょう。

小学生のときに出来ていたことが、大人になると出来なくなる。それは大変寂しいことです。大人になったからこそ、一層他者を想う気持ちを持っていたいものです。

そして万が一何かあった際には、自身の置かれた立場にこだわることなく、年齢や国籍、性別、宗派や宗教といったものを超えたところで、助け合いが行われるべきでしょう。もちろん潮音寺でも、可能な限り、地域の皆さんと協力して厄災に立ち向かいたいと考えています。

もっと言いますと、これは「有事」に限った話ではありません。なにかが起こらずとも、他者を気遣うというのは、必要なことなのです。むしろ、普段からそうした心配り、共助の精神を持っていてこそ、いざ災いが襲ってきた際に真価を発揮するのでしょう。

ただでさえ現代は、インターネットの流行により個への分断が加速し、「共助」という概念が薄れつつあるように思えます。そこに、昨今の新型コロナウイルスです。

当初は、企業や大学などにおいて、リモート方式への反発があったり、やりづらさを感じる人も沢山おりました。ですが、この長引くコロナ禍で、次第にそれが浸透してきているように伺えます。

面倒な対人関係に悩まされず、会社や学校にわざわざ満員電車に揺られていく必要もない。こういった煩わしいことに、悩まされずに済む。もちろんそれは仕様がないことですし、インターネットやSNS上での繋がりが増えるということも、決して悪いことではありません。

しかし、災いというのは常にリアルな世界で襲ってくるものです。ヴァーチャル上の関係だけでなく、実世界でも関係を構築しておく。このご時世では難しいからこそ、常に意識をしていたいものです。

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