何もかもに疲れたら、一度自然の中へ。「インターネットでは分からない、本当の自分を教えてくれる」
パソコンやスマートフォン、街中の大型ビジョン、電車内の液晶など、どこにいてもたくさんの情報が飛び込んでくる現代社会。主体的に得ようとせずとも、知らず識らずのうちに情報過多の渦に入り込んでしまい、疲れてしまう。そういうことが、往々にしてあるご時世です。
街を歩いていても、オフィスで仕事をしていても、自宅で就寝していても、常にWi-Fiが起動し、外の世界と繋がっている。そうした環境に身を置き続けていては、次第に「己」と向き合うことも難しくなってくるでしょう。
自分が本当は何を考え、何を悩んでいるのか。どのくらい疲れ、何に悲しんでいるのか。そういった自分の本心が、外部からの情報により埋もれてしまっている状況に、知らないうちに置かれてしまう。これは怖いことです。
他者との接続性ゆえに、己との関係構築が難しい現代。そうした状況の中で、たとえば休日などに人の少ない公園に行く、山登りをする、海を見にいく。そのようにして自然に触れることで、自身が洗われるような気持ちになったことはないでしょうか。
これはいわば「自然」という存在が、「己」を照射し、向き合う時間を与えてくれているということなのです。かの道元禅師が詠んだ有名な歌で「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬ゆきさえて すずしかりけり」というものがあります。
当然この歌は、四季折々の変化に富む美しい日本の自然を表現したものです。しかし一方で、この歌の題名が「本来の面目」とされているように、あるがままの自然の中で、本来の面目、つまり本当の自己から見える風光というものを詠っているとも言えます。
自然の中に身を置くことで、自分自身が洗われ、本当に大事なものが分かってくる。他者や周囲の意見ではなく、いま自分は何を考えているのか、いま居る環境が自分に合っているのか。そうした根源的な問いを、自然は突きつけてくるのです。
自然は常に、人間の本心を照射します。それは、はるか昔から永遠に変わらない自然と人間の関係性であり、ネット社会となった現代にも、当然あてはまります。むしろ、情報過多で自分が分からなくなることも多い現代だからこそ、より自然が求められていると言えるかもしれません。
では、自然の中に身を置くだけで、本当の自分と向き合うことができるのでしょうか。そこには、一工夫が必要です。それは、五感全体で受け止めるということです。海辺で波の音を「聞く」、潮の香りなど「嗅ぐ」。五感を最大限に尖らせ、自然と対峙するという姿勢が必要になります。
また、実際にそこで動いてみるというのも大事でしょう。海の水に触れる。山に登る。森の中を歩く。体を動かすことで、当然五感にも刺激があります。
私であれば、たとえば、竹箒で山内を清掃したり、草むしりをする。なにか心がもやもやするときには、意図的にそうしています。座禅を組むよりも、簡単に“境地”に入り込むことができるのです。
しかし、こうして「本来の面目」と出会い、自分の置かれた状況を洗い出したところで、必ずしも良いことばかりが見つかるとは限りません。ときには苦しくてつらい経験、心の悲鳴が聞こえ、かえって苦しみや悲しみという感情に気づいてしまうこともあります。
ですが、このような悲しみや苦しみというものが、我々にとって大切なことを教えてくれることもあります。たとえばそれは、この世が「諸行無常」であると知るということ。
病気、あるいは障害で体が思うようにならない人、親子関係や友人関係での悩み、いじめに苦しむ人、挙げたら切りがありませんが、日常は四苦八苦ばかりです。しかしどれだけ辛くても、人は最終的に棺桶に入らければいけません。これは誰しも同じです。
地球にしろ日本にしろ、あらゆるものは変化し滅びていきます。その上で、いましか生きられないということを悟るのです。そうすることで、幸せを鋭敏に感じ取るアンテナが立っていき、些細なことでも日常を楽しむことができるようになります。
いずれにせよ、正にも負にも、まずは自分というものを認識し、本当の感情を知る。自分を取り巻く目、情報、こういったものを一時的に断ち、自然の前に自分を晒す。そのような機会が、この時代には必要なのでしょう。
昨今、芸能人の痛ましい事件を耳にすることが多くあります。ですがSNSの世界に、誹謗中傷をする人間は住んでいるのでしょうか。あなたは住んでいるのでしょうか。あなたにつきまとう嫌な言葉は、本当にあなたが気にする必要があるのでしょうか。
そういったことも含め、自然に問う。自分はいま何をして、何を考えるべきなのか。肩の力を抜いて、一度試してみるのもいいかもしれません。